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非合理・非論理であるというのは、自分にとってそうであるということであって、そしてまたそれは、自分にとって未知で、異質で、知り得ないものであって、そして実は、それこそが自分にとって何よりも大切なことになる、そうしたことがあるのである。 なぜならそれは、自分にとって欠けているもの、求めているもの、目指しているものに「つながる」ことがあるからである。少なくとも、いまの自分にとって失われているものだからである。 それは、自分でないものを意味している。自分でないものを通して自分を知り、意識し、自覚するのである。いままで知ることのなかった未知のものを通して、自分を見ることになるのである。自分の中に未知のものを発見することがあるのである。 合理性や論理性は、すでに知っていることを表わすに過ぎない。こうであるはずだとか、そうでなければならないと思い込み、本来、自分のなかにしかないものを他人に求めて、そうして他人から与えられたものを、自分のものだと勘違いしているのである。 歴史上の「近代」がそうであり、啓蒙主義がそうであり、そして全体主義・共産主義もまたそうである。 |
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