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しかし、男の場合、破壊というのが「意志的」である。自分でもわかっていて、理解しながら、そうしたそうした破壊的な行動へと出るのである。つまり、暴力的ではあっても「意志的」なのである。そうした意味で感情的でも情緒的でもないのである。感情といったものが、自分の意志によって、自分の意志の下で理解されながら、行動しているのである。意識的で計画的なのである。 男の場合、暴力的で破壊的だというのは自分でも分かるのであるが、ではいったい、なぜそうなるのかというのが、自分でも分からないのである。このような自分自身の中にある衝動や本性といったものに、自分で自分に悩んでしまうのである。 なぜ、そうなってしまうのか、そうしなければならないのか、そうしようとするのか、自分でも分からなくなってしまうのである。自分で自分を意識してしまうのである。もしかすると社会の中で置かれている男としての立場が、そうさせるのかも知れない。しかしそうだとしても、そうした役割といったものが男に向いているから、そうなっているのではないか。 |
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