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そしてこれが、彼女・彼らが社会から与えられるアイデンティティーなのである。これが彼女・彼らにとっての居場所であり、また、社会から認められた彼女・彼らにとっての自己認識のあり方なのである。 そうやって、自分というのが社会から承認され、そしてその社会の一員としての立場や居場所が示されるのである。そしてこれが、彼女・彼らにとっての自意識であり、自己認識となっているのである。それ以外に無いのである。 つまり、これが社会から与えられ認められた自分自身という者の、公の生き方と存在となっているのである。これは、その本人がそれを願い求めたものではない。また、たとえ本人がそれを求めものであるとしても、それを認め許容したのは社会なのである。それは社会が定めたことなのである。 現実は本人の主観によって動いているのではなくて、社会全体としての客観的なバランスの結果として動いているのである。だからまた、現実とは客観的なのであり、それは自分にとってみれば外の世界となっているのである。自分ではどうにもならない客観的な現実とはこのことなのである。 現実の世界では、自分というのが他人とは違う者、別のものとして存在しているのである。だからまた、そうやって自分というのが、自分にとって限りなく大切で貴いものになっているのである。自分というのが自分にしかないものになっているのである。 そうして自分が自分にとって、永遠で純粋なものに感じられてくるのである。これは、自分で自分を感じて意識しているのであって、これが自己意識なのであって、そして、こうしたことが自分自身の自意識の中で欠落しているのである。 |
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