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3、主体。

この世で、自分に対して責任を持ち得るのは自分だけなのである。自分の身体こそが、自分の主体となり得るのである。自分の肉体こそが、自分と現実との接点となり得るのである。自分の肉体を通してのみ、自分と現実とがかかわり合うことが出来るのである。

こうした自分の肉体を通しての、自分と現実とのかかわりが無くなったとき、つまり、肉体と意識が分離したとき、自分が誰かわからなくなる。まさに、これが誤解の元になっている。しかしまた、この誤解こそが意識の始まりなのである。

意識は、現実との接点を求めている。しかし、現実は「まやかし」なのである。つまり、意識と現実をつないでいる感覚といったものが、現実をうまく表現できないでいるのである。

そしてこの感覚こそが自分に意識を与えてくれるのである。しかしそれは、マボロシのような錯覚でしかないのである。だからまたそれは、印象や象徴、思考と抽象へと一人歩きを始めるのである。

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