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それはずっとそうであり続けた。大化の改新がそうだったし、明治維新がそうだったし、終戦前後がそうだったし、20世紀末からのグローバル化(無差別国際化)がそうである。へだてる海を透して自分たちを見ているのである。 自分と他者を区切る境界線。内(うち)と外(そと)。あちらとこちら。彼らと我々。こうした自己と他者をへだてる境界線を通して、外の世界を見ているのである。それは目には見えないが、明確に区別され識別される自己の精神の領域、越えてはならない境界線なのである。 それは現実の上でも、日本の特殊で独特な文化や考え方、意識となっていて、そしてまた、それはそれで外国で通用もせず、理解されることもないのである。それは同時にまた、精神の文化的・歴史的区切り線、境界線となっていて日本人自身が自分を意識し、自分自身にめざめ、自覚する場面となっている。 こうした目に見えない「囲いの中」で自己を完結させようとするのである。この「囲いの中」から出ることはない。この囲いから出るということは、その時点で日本人でなくなってしまうのである。たとえすぐ近くで住み生きていても、もはやヨソ者・部外者・ソトの人なのである。 直接目に見えることのない心の中がそうである。また、周りの世間もそのような者として見做し始める。私たちはみな同じ日本人であり、それ以外は非日本人・非国民なのだと。日本人の姿をした日本人とは何か別の者であると。日本には日本人しか存在しないのである。日本でいうところの安心・安全・平等・公平とはこのことなのである。 |
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