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11、カラッポ。



うすモヤの中から顔の表面だけが浮かび上がってくる。輪郭線はまだボヤけたままでハッキリしない。まるで夢の中で見るように。

例えば、初夏の室内の教室や事務所内の情景がそうである。
室内のかすかに立ち昇る水蒸気のカスミや、それとまた室内のぼやけたスリガラスを通して入って来る光が、乱反射を繰り返し人間の顔表面や姿を包み込んで、何かしら光の中の世界から人や人の顔が浮かんでいる。そうした情景を作り出している。

これは不飽和水蒸気のカスミ(霞)が多く立ち込めていて、さらに大気と地表面の温度差の大きくなる、初夏の午前中によく見られる現象である。また午前中の斜め水平方向からの光の向きも、光の回り込みや乱反射による映り込みとも関係している。

しかしテレビや映画では、こうした光の「演出」とでもいったものが、いつでもどこでも無差別に、どんな場面にでも飛び出してくる。これは偽りとデマとデッチ上げの世界である。現実世界にないものを画像の処理でムリヤリ作り出している。

始めは感動もするが、すぐに飽きるし、忘れられ、そしてウンザリ・ヘキエキしてくる。これは非現実の偽りの偽善の世界である。あるのは見える外面だけで、中身は何一つ何もない。見栄と体裁、そして派手なだけがとりえのカラッポの虚無の世界である。

これは実際に、カメラマンがよく使う手法で、まったく、だれもかもが同じ手口をまねるものだから、実にしらじらしく無意味で空虚なカラッポの世界を映し出している。外面と内面の区別がない、なんやらわけのわからないカラッポの世界にしか見えないのである。

しかし、そうした世界を求め作り出したのは、それを欲した大衆であり、それに答えたカメラマンなのである。これは、そうした大衆の心の中を映しだしている。


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