index < 日誌 < 2018 < 感じ方。< 18-46「感覚の偽善」


 
1、誇張。



目ではなくて、なにかの記憶でもって「もの」を見ようとしている。だから、よく確かめもせずに、それとよく似たようなものを勘違いして見ている。それとか、たとえば何かの特徴と結びついた印象的な部分だけを見て、それが周りと切り離されて、ただその印象だけが大きく拡張されて見えてくる。

そして、たしかにそうだと思えてくる。実際にあるものよりも大きく誇大拡張されて、印象深くあざやかに見ている。先入観だけで確かにそうだと自分でも納得し信じ込む。

そして同時にまた、その周りのことが見えていないのである。どうでもよい必要のないものとして見ていない。見えていても見えないし、見たとも思わない。実際こうした場合、本人には見えていないのである。記憶に残らないのである。

人が、なにかを見ていると思うとき、それは何かの記憶とか経験と結びついている。何か意味があるから、それが「もの」として見えてくるのである。逆にいうと見えているものは、すべてなんらかの意味を持っている。問題は、その見えているものの意味である。正確には、自分にとっての意味である。自分にとってというのは、つまり自分の記憶につながっていて、そしてそれは自分の経験につながっている。


戻る。              続く。

index < 日誌 < 2018 < 18-46「感覚の偽善」