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8、桜の花。



そして島国日本は養殖のニワトリ小屋のように狭く息苦しく、少しでも周りと違うことをして波風を起こしたりできないのである。同一民族が文化的にも空間的にも、歴史的にも隔離され固定されたままの静止した世界なのである。

そこからまた、日本人特有の几帳面さ、集団的規律や他人を思いやる心情・気質といったものが習慣や性癖となって、また社会の暗黙のルールやマナーともなっている。こうしたこともまた、先に述べた日本の自然条件と密接に結びついていると言わざるを得ないのである。

春の桜の花見もそうである。冬が終わりめざめと再生の春がやってくる。だれもが同じ日本人であり人間なのである。人間とは、日本においては日本人のことなのである。心と気持ちを新たにだれもが、そしてすべてが「ゼロ」から始まる。

だから、咲くのも同じで、散るのも同じである。そうでないと気が済まないのである。そうでなければならないのだ。いっせいに咲き、そしていっせいに散ってゆく。そして、咲いている期間も他のどの花よりも短い。それでよいのだ。

それは夢なのだから。それは死んでいった者、排除された者たちへの鎮魂の儀式でもあり、新たな再生とめざめの象徴なのだから。だから、花見は祭りなのだ。何もかも忘れて酔い歌い踊るのである。もちろん、こうした心境といったものは外国人には理解できないものでもある。


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