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人間は、自分の都合に合わせてものを見ている。関係のないもの、わからないものも含めて、それを自分の都合に合わせて解釈して、信じ思い込む。しかし本当にそうなのだろうか?それは私個人の偏見ではないだろうか? そんなことは、だれにもわからないし、だれにだって自分の都合があるし、社会全体としても、その社会特有の原理と都合に合わせて現実を見ているではないか。新聞、テレビ、学校がそうである。そしてこれこそがもっとも怪しいのである。 それは、もともとないもの、ありえないもの、あるはずのないもの、あってはならないもの、あること自体が自分にとって都合が悪いもの、なのである。だから、無いと思い込み信じること自体がもっとも肝心なことで、すべてはそれに尽きるのである。 それが、自分がこの世界で生かさせていただくための、必須の条件なのである。この世界を生きて行くための唯一の前提条件であり方法なのである。唯一の収入源であり生活の糧となるのである。そしてこれをもって私たちは「正義」と言っている。 人間は自分の都合に合わせてものを見ていて、そしてそれを信じ、奉じてたてまつり、それ以外のことは見えていないし、見ようともしないし、見てはならないし、見えないし、見えてはならないのである。だから見ることもないし、たとえ見えていても、見えないものとして、すぐに忘れるのである。 |
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