index < 日誌 < 儒教、自意識、18-54「閉じた世界」


 
2、シアワセ。



学校や会社、地域社会も同じことが言える。人間というのが、自分を見失って他人にすがって生きていこうとする限り、支配と隷属の関係は存続する。

これが社会のなかで自分が生きて行くための必須の条件であり、社会全体のシステムなのである。ここから離れたところに生きて行く方法はないのである。

だからまた、そうである限り、無いものを有るといい、有るものを無いと言い続けなければならない。なぜなら、それが支配と隷属の関係だからである。

自分の考えも意思もない。したがって、自分自身の内面に悩み苦しむこともない。
そもそも、自分の責任とか権利といったものがない。自分が死ぬも生きるも、他人まかせだからである。これほど気楽で幸せな生き方が他にあるものか。中世インドのカースト制度、東アジアの儒教社会がそうである。

確かにその通りである。儒教思想・家父長制がそうである。プライバシーと人権、人格の概念がないのである。自分と他人との間に境界線がないのである。それがわからないし、理解もされない。日本も韓国も中国も、数百数千年ずっとそうであり続けてきたのである。いまでもそうである。


戻る。            履歴へ。

index < 日誌 < 儒教、自意識。18-54「閉じた世界」