index < 日誌 < まだら模様。<18-70「衝動」」 |
昼間の閉じた目の中の、孤独以前のまぶしいだけの白と灰色のマダラ模様から、目を少しづつ開いてゆくと初めて光が見えて来て、線や形も、そして色あざやかな色彩や光で照らされた外の情景があらわに見えてくる。それらは本来、自分というのが生きている証明でもあり、めざめと自覚といったものなのである。 いろんな色。様々なカタチ、そして明暗のコントラスト、光とカゲ、そうしたことのすべて。豊かな諧調と色彩の鮮やかさなどといった、目に見えるもののすべて。そうしたことのすべてが、精神に落ち着きと安定や安らぎを与えて目にもここちよさを与えている。 そして、そうしたことのすべてが自然の状態なのであって、生きているとは、このことなのである。情緒的にも最も安定したデフォルトな初期的状態、標準的・基本的な状態なのである。 日当たりとカゲ、正面と背面、内と外、精神と肉体、心の内面と外の現実、などといった現実を生きる指向性と自分が生きている方向性といったものが、いまだ自覚されてはいないが、無意識のうちに、全体としてそれらにいだかれ包まれている状態である。ここちよく、おだやかで優しげな情緒といったものである。それは自分が生きている山や川、道や建物、祭りやシキタリ、風や、暖かさ、冷たさといったものである。空気のニオイとでもいったものである。 人間の肉体や感覚そして精神は、それらは本来、連続した同一のものなのである。そうした情緒の世界を人間は生きているのであって、こうした情緒の切断されたところに自分自身は存在いない。自己の一体性や連続性がどこかで切断されて、自分が見失われているのである。そして自己の存在の理由が問われている。 |