index < 日誌 < n かすむ。 <18-82「早春」 |
3月の早春の世界はまだ肌寒く、カラダは寒さにそなえて身構えている。そんな中で風景のなにもかもが外へ出ようとしている。いままで固く閉じていたものが外に向かって開いて出ようとしている。しかしいまだ肌寒く、身構えて警戒しながらも、それでも、様子を見ながら出ようとしている。 いままで殻(から)のなかにあって隠れていた、何か得体の知れない生命力とでもいったものが、存在の源(みなもと)とでもいったものが、自分の中から外へ向かって満ちてくる。まだ寒く、何かを安心しておこなえる状態ではないのに、カラダはまだ閉じこもって何かを警戒して閉ざしているのに、それをむりやりこじ開けようとしている。これが、3月の日差しの眩(まぶ)しさである。まばゆいといった春の日のような優しさではない。 いつの間にか知らぬ間にほのかに芽生えて来ていて、それがだれからどこからというのではなくて、だれもがみなそうなのであって、気がつくとだれもがそうなのであって、カラの中にあって見えていなかったものが、いつの間にかカタチとなって現実のすがたになっている。 だれもが、世の中のすべてがそうなのだ。いつの間にか知らぬ間に現実というのが変わってしまったのだ。これが春の日のおだやかさ、やさしさ、あざやかさというものである。だれもがいつの間にか、気づかないまま変わってしまったのだ。そしてそれは、もはや、戻れないし、戻ることのできない世界なのである。そうした自然に導かれ誘われるままの、意識することもない、とってもここちよい目覚めであり、まばゆさなのである。 |
index < 日誌 < n かすむ。< <18-82「早春」