index < 日誌 < 自意識。 < 「見えるもの」p3 |
自分の意識をのぞき見してはならないのである。それは恐ろしいことなのである。だからこそ、そうやって、いつまでたっても自分というのが見えてこないし、見る必要もないし、見なくて済むのである。これが「信じる」という意味であり、シアワセな生き方なのである。 本当は、それがウソだとわかっているからこそ、安心して信じることが出来るのである。すべては夢とマボロシの世界をさ迷い続けていて、そうやって、いつまでも永遠に本当の自分というものを見ないで済むのである。 世界というのが、そうやっていつわりと偽善で出来ているからこそ、自分で自分に責任を負わなくて済むし、自分のことを自分で生きてゆかなくて済むのである。自己放棄と無責任こそがシアワセに生きてゆくコツなのである。だからまた、システムにとっては偽善と迷信は絶対に必要な条件なのである。 そうした、迷信で意識されイメージ化されたものが、現実に目の前にあるものだと思えてくる。しかしそれだけではダメで足らない。そう思わなければならないし、そうであるはずなのである。そうでなければならないのである。なぜなら、そう思い込むことによってのみ、自分の居場所と理由が与えられるからである。生きて行けるからである。 |