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現実というのは、そして本当の自分というのは、絶対に見てはならない。自分の心の中をのぞいてはならない。それはヘビに睨まれたカエルが、恐ろしさのあまりヘビを睨み返すのと同じで、呑みこまれてしまう。 現実は自分にとってみれば、つらくて苦しいだけの地獄なのである。だから、偽(いつわ)りと空想の中を生き続けなければならないのである。だからまた、いつわりの迷信というのが必要なのであって、それは本当は、偽りとわかっているからこそ、そしてまた、偽りといったものが誰にもすぐにわかるものだからこそ信じられ、崇拝されるのである。 真実というのはウソと偽りのことなのである。だれもがそうやって信じるからこそ救われるのである。救いが必要なのである。だから本当のことは隠し続けなければならない。その目的とするところは「救い」なのである。自己放棄という無責任を隠して自分を正当化してくれる「理由」が必要なのである。 だから本当の自分は隠し続けなければならない。知ってはならないし、見ようとしてもならないのである。だからまた、他人から押しつけられ、そしてそれが自分の意識の中でイメージされた空想に過ぎないとわかっていても、なおもそれを現実のものとして受け入れるのである。受け入れることが出来るし、また、受け入れなければならないのである。「救い」とはこのことなのである。 |