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だからもちろん、何かありもしない音や気配にしても、そこから何かを感じるといったことが当然おこって来る。自分の息の呼吸や心臓の音が、何か外からのの音色(ねいろ)として聞こえて来たり、空気に触れる肌の感触が何かに触れたようで、体内の血流が一瞬止まったり、周りの空気や雰囲気に肌の毛が逆立ちして、なにか言いようのない、人の気配をすぐ真近に感じたりするのもそうなのである。 自分の心の中にある何かが、外の現実の世界に対して、ワケも分からず本能的に反応しているのである。しかし、それはもともと、自分の中に衝動としてあったものなのである。 それが何かのキッカケで反応し、呼びだされて、自分の中から溢れてきて、外へ出て来ようとしているのである。何か得体の知れないイメージとして、あるいは音色や気配となって、見えたり聞こえたりしてきているのである。 そうやって、未知で異質なものを自分の中に感じてしまうのである。そしてそれが、いやがうえにも自分を圧倒してくるのである。忘れられていたものが、得体の知れない衝動となって自分の中でよみがえってくるのである。迫ってきて、襲いかかるのである。 そしてもちろん、それが「何か」というのが、自分でもわからないのである。それは、それ以前の、根源的な本能や衝動といったものだからである。だからまた、言い換えると、それは自分が何ものなのかという、すがたカタチを求めているのでる。 何らかのカタチを取ることによって始めて、それが「何か」というのが分かってくるからである。自分にとって無視できない、「何か」であることが意識されてくるからである。それは、自分は何かという、カタチを求めているのである。 それは、なにかのカタチにならなければ、過ぎ去ってゆく感情の気まぐれで終わってしまう。イメージや音色、あるいは気配といったものが何らかのカタチとなることによって、始めて、それが記憶に残ることが出来るのである。意識もされ、それを知ろうともするし、理解もされてくるのである。 |
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