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だからまた、それが誰なのかなどということは、どうでもよいことなのであって、感情そのものにとっては、それは誰にもある、誰でもよいことなのである。だからまた、それが誰なのかというのが、いつまでたっても見えて来ず、それが誰なのか特定できる「目」というのが、いつまでたっても見えて来ないのである。人影というのが、誰かわからないまま現れて消えて行くのである。 そうして、その人影が表現しているのは、そうした人間の内面、心の中の衝動、あらゆる「理由」から切断された「感情」そのものであって、得体の知れない理由などどうでもよいことなのである。 苦しみや驚き、当惑、予感といったもの、人生の楽しみやうれしさ、苦痛などといった感情そのものが、何かのキッカケで衝動となって、中から押し出されて、浮かんできて、映し出されたのである。心の中から外の表面に映り、写り、移し出されたのである。そうした心の動きが、夢の中でイメージとなって表現された、ということなのである。 あるいは心の中の「情緒」といったものが、不具合や不都合、不整合やアンバランスになっていて、それを元に戻そうとしているのかも知れない。 |
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