index< 日誌 < c信じるもの < 19-019「だれに対して?」p2- |
自分が善意であるにもかかわらず、相手がそれを嫌がっているのだとすれば、それは、してはならないことなのである。善意と思い込みと自分勝手、そして自分の都合とは紙一重なのであって、そんなことには、かかわりあってはならないのである。 それは、本人だけの主観に過ぎないのであって、つまりは、自分の利害に過ぎないのであって、嫌がる相手に対する善意の押し付けは、単なるエゴイズム、私欲に過ぎないのである。相手の嫌がることをしてはならないのである。それは、押し付けであり、わがままであり、いやがらせでしかないのである。 だから、そうした個人的な主観や思い込みは、利害を捨てて考えなければならない。つまり、客観的かつ公平に、お互いが対等の立場で考えなければならない。 このようにして、お互いの人格の独立とその尊重が前提になってくるのである。それは個人的な感情が切断されたところに成り立つ、客観的で理性的なものなのである。理性とか論理ということ自体が、すでに感情から切り離された、客観的で普遍的なところにしか成り立たないものなのである。 |