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2、からっぽ。


しかし、それはまた、この「囲いの中」から離れたところでは何をやっても良いし、どんなことでもするということである。囲いというのは公の生活であり、囲いの外というのは私的で主観的な、何一つ制限のない自分だけの世界なのである。

要するに、他人が見ていないところでは何でもするし、何をやってもよいし、どんなことでもするということである。良心も信条も信仰も表面上の見せかけに過ぎないということである。

しかしまた、だからこそ主権が必要なのである。国家の国民という自意識が求められたのである。とはいっても、それ自体がすでに周りのみんなという権力からの押し付けであって、自分というのを、外からかぶせて取り繕っているだけの形式的な体裁に過ぎないのである。

従ってまた、そこに自分自身というのが本当にあるのかどうかというのは、実のところ全く疑わしいのである。要するに、始めから最後まで、自己意識というのが欠落したままの、それを無視した、カラッポの自意識の外面だけで成り立っている、そうした世界なのである。


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