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1、理由。


理由など、どうでもよいのである。ただそうやって誰もが安心もするし、共に生きていると思うことができるのである。自分たちは、利害が同じの仲間のように思うことができるのである。仲間であることができるようになるのである。そしてこの同じであることが仲間であり、自分たちが同族であるということ自体が、そうでない者を必要としているのである。

そしてこのような、「信じる」ということ自体が、人間にとって必要なことなのである。何でもよいから、自分が周(まわ)りと同じで、まわりも自分と同じであると信じるということ自体が、人間にとってはどうしても必要なことなのである。

なぜか? 自分に責任を負いたくないからである。自分が自分であることを意識したくないからである。自分で自分の意識を見たくないからである。あるいは、自分の意識が見つからないからである。このようにして、自分が自分を意識せずに済むのである。自分で自分をのぞき込まなくても済むのである。

そんな気味が悪く恐ろしいことは、だれも避けるし、逃げるし、そしてそれは、してはならないことなのである。それは社会の秩序と安定を破壊する者であって、そして何よりも、自分で自分の精神を破壊してしまうのである。

自分が自分でなくなって、自分が、自分とは別のだれか他人になってしまうのである。そう思えてくるのである。だから、自分で自分を覗(のぞ)いてはならないのである。


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