index< 日誌 < am種 < 19-42「観念の世界17,可能性」p5- |
たとえば日本に生まれれば、日本人としての生き方しかないということなのである。これはなにも、どんな地域・国家であろうとも、どんな時代であろうとも同じである。その地域とその時代に合った生き方があって、そこから逸脱して生きてはゆけないということなのである。 可能性としての遺伝が現実の世界に現れる。発現する、現実化するというのは、それが現れる現実の物的条件といったものが、現実の世界ある場合に限られる。人間は、この現実を離れて生きて行けないということなのである。 これが現実の世界なのである。環境と言ってもよい。自己が現れ出て来る「舞台」、背景、下地、キャンバスとでもいったものなのである。つまり、人間というのは遺伝とは無関係に環境によって生かされている、生きることを余儀なくされている、ということである。 そしてこの「遺伝」自体は、数万・数億人に渡る自己と環境との間のせめぎ合いと交流の中でカタチづくられてきた、自己のカタチなのである。そうした果てしのない、同じことのくり返しの中で自動化・最適化されてきた、自己のすがたカタチなのである。 |