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しかしまた、これを個人というレベルで考えた場合はどうだろう。国民や民族、その他の社会集団としての立場から離れて、これを個人として見た場合である。周りと同じ外見、同じ肌の色、服装、言語といったものが同じで何ら目立つこともなければ、その「生まれ出たところ」というのが、なんら知られることも気づかれることもないのである。 そして、それはそれでまた、現地の周りの人間と同じように生きて行けばよいのである。要するに、まわりに「なりすまして」生きて行けばよいのである。まわりがそれに気づくことがなければ、そのままで生きて行くことができるのである。それが許されるし、表面上だけは、そのような者として認められるのである。 それでもしかし、その内面的・宗教的な違いといったものが、依然として残り続け、根本的に違うといったことがあるのである。外の社会生活は同じであるにもかかわらず、それでもその本人の内面の精神といったものが、どこかで根本的に違うといった場合である。そうしたことがあるのである。同化したユダヤ人がそうである。 |