index< 日誌 < am種< 19-63「続、肉体の記憶」p6- |
それは、目に見える過去の遺物や文献だけから見えるのではない、むしろ、遺物や文献は、そこからそれが現れ出て来たカタチの一つに過ぎないのである。 それは、自分自身の中にしかないものなのである。自分だけがそれを知り、自分だけにしかないものなのである。それが、自分自身の肉体の存在のカタチであり、肉体の構造や機能と生理の仕方であり、自分だけが持つ固有の「感じ方」の世界なのである。 これが、自分が自分であるという、自分の印(しる)しであり、意味であり、理由なのである。存在の必然性であり、自律性なのである。自己の一体性であり、内的同一性なのである。そして、これがつまり、失われた自己の記憶の世界なのである。 そしてこれが、見えないところで自分を包み、そして自分を支配して動かしているのである。そうした自分自身の背景や下地、根源となっているのである。それは、いまでも生きているし、感じることも、見ることもできるものなのである。 |