index< 日誌 < c信じるもの< 19-75「自分たちⅢ」p5- |
そしてそうしたことが、自分と自分たちが「信じるもの」、または信じようとしているもの、あるいは信じなければならないものとなっていて、自分を無意識のうちに導きいざなっているのである。 自分たちが目指し、指向するものとなってなっている。あるいはまた、自分たちの「傾向」や素質となっているのである。そして、それがまた同時に、自分たちの存在の理由や意味となっているのである。 いいかえると、ここから離れたところに、人生の意味も、自分が生きている理由も見失うということである。したがってまた、だからこそ、情緒的で感情的だと言えるのである。理屈や理性では理解も、納得もできないものなのである。 現実の自分の立場や利害関係を逸脱するようなことが起こるのである。というよりも、それよりももっと大事で深刻な、根源的なものと無意識のうちに受け止めているのである。つまり、自己の魂(たましい)であり、自己の内的同一性、アイデンティティーに直接かかわるものとなっているのである。 |