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すがたカタチがいくら変化しても、自分が自分であるということに変わりはない。なぜなら、もしも「変化する」ということが、自分が自分でなくなるということであれば、自分がただ「変化する」というだけでは済まされなくなるからである。 自分が自分でなくなるということは、自分の否定、自分自身に対する否定であって、ただ単に、外面的なすがたカタチではなくて、内的で本質的な自分自身というのを喪失してしまうことになるからである。 自分が自分であるという、そうした自分自身の成り立ちと自律性、そして自分自身の存在を自ら否定することになるからである。自分そのものが無くなることを意味するからである。 自分が生きてきた記憶や歴史、そして自分自身が生きている現実の自分を失うことになるからである。そしてそうした自分は、現実に存在し得ないからである。自分というのが現実に存在しなくなるからである。 |