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4、内的感覚。



キリスト教世界がそうであるかどうかは別として、キリスト教自体はいままで述べた東アジアの信仰とは別のものである。何を信じるかといった意味でそうなのである。また、単に「何を」という以前に、自分自身に対する自意識についてそうだと言えるのである。

信仰とは、そこで生きる人々の「信じるもの」のことであり、本人の自由な意志を排除してしまう新興宗教や、カタチある神とも本質的に違うものである。それは、自分自身の心の問題なのである。

ここでいう信仰とは、無意識のうちに気づかないままで、自分のなかで蓄積されてきた、なにかを良いと思う、そうした求めるもの、願うもの、信じるもののことである。

そして、それを感じることができるということ自体が、実は自分自身の身体内部に対する、自分自身の感覚を指しているのである。自分の身体内部の営みからそれを感じ取っているのである。自分で自分の身体内部の営みを感じているのである。そしてそれが感情となって現れているのである。

それは「種」としての身体自身の記憶なのである。意識や思考以前の、自分自身の肉体の記憶なのである。その生理や作用の仕方の記憶なのである。そしてそれが感情として現れているのである。

戻る。                    続く。

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