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4、主体。


だから、この東アジア儒教世界、あるいは同じことであるが、この日本において、自分が自分を意識するといった場合、それは実は、自分自身を意識しているのではなくて、他者を透かしての、その反射としての自分を見ているのであって、そうして自分を意識し自覚しているのである。

しかし、それは他者を通して自分を見ているのであって、従ってまたそれは、自分が自分に対して意識し、そして自覚しているのではないのである。それは必ずしも自分のなかの自分を見ているのではないのである。そしてこの自分の中の自分こそが、自己意識なのである。

だから例えば、自分は自分に対して正直なのかと問う場合、それは実は、自分自身に対して問うているのではなくて、他者との関係において自分は正しいのかどうかを問うているのに過ぎないのである。厳密に言うと、自分自身に問いかけているのではないのである。当事者としての自分自身というのは、どこにも存在しないのである。主体という自分が意識されていないのである。


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