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4、掟(おきて)。

しかしまた、だからこそ、西洋キリスト教世界において、合理性や抽象的思考、そしてそうした個人の精神の、無限の可能性といったものが発展し得たのではないだろうか。

そしてまた、それとは対照的に東アジアにおいては、そうしたことに係わることのない無関係なところで、集団主義や没個性、協調性や直接的な直感や、そしてまた、理論や合理性を無視した、経験や勘が重視されたのではないだろいうか。

芸術的であり、一身専属的な技能でもあり、直感的で情緒的、感情的な感覚であって、それがどこまで行っても客観的な合理性や科学として、あるいはまた、外の世界から切断された個人としての、自己の内面性へと突き進むことがなかったのである。従って、東アジアにおいては今日に至るも、人権やプライバシーといった人権のが概念が曖昧なままなのである。

というよりも社会全体が、個人が個人として生きて行きづらい、そうしたシステムとして成り立っているのである。より正確に言うと、生きづらいというよりも、生きて行けなく出来ている。

それは不要でわずらわしいだけで、まったく理解不可能な、何かの災いのタネとしてしか理解されないのである。また、そうすることが波風を立てずに生きて行くコツとなっているのである。そしてまたそれが、だれにとっても、自分たちの暮らしと平和を守って行くオキテと理解されているのである。



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