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現実になにかがあるというのは、現実としてそうなのであって、それは現実を通して、現実の一部分として現れてくる。現実とはこのことであって、それは自分にとって外の世界、物的・空間的世界でもあって、それを通して自分自身というのが現実の世界に現れてくる。 それでは、人間にとっての時間的歴史的世界はどうだろう。それは自己の記憶の世界であって、しかし、それもまた、現実の物的世界を通して現れてくる。なぜなら、それが現実に対する自分自身の感じ方、見え方だからである。そうした感じ方を通して、現実というのを見ているのである。 だからまた、その見え方といったものは、偶然の錯覚の思い込みにならざるを得ない。私たちは、そうした無意識の象徴と印象の世界を生きている。それは自分の中の、自分を含めた祖先の記憶が作り出したものなのである。 それは自分自身の肉体が、その営みとして記憶していたものなのである。それが現実の物的世界を通して映し出されているのである。自分自身の中の肉体の営みが、その感じ方のパターンとして現れ出てきているのである。 |