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それ以外の現れ方があり得ず、それだけが唯一の現れ方になっているのである。それは、そのようにしかならない「必然」とでもいったものである。もちろんそれは、未知の偶然をも含んだ必然性でもあって、そうした意味で偶然そのものが必然であるとも言えるのである。 そうした意味では、必然というよりも、むしろ確率、あるいは蓋然性とでも言った方が正確である。なぜなら「必然」とは、人間の頭の中で作り出された論理の思考方法に過ぎないからである。それはただ人間というのが、現実というのをそのように見ているということを、表明しているということなのである。 そしてまた、この思考方法自体が、思考する人間が生きている現実の世界によって条件づけられ、規定されている。人間は、自分にとって必要なものだけを思考するのであって、こうした必要自体が、人間が生きている現実の世界によって定められているからである。 そして、そうしたことが、人間が生きている現実の条件と時代によって、あらかじめ方向づけられてしまうからである。人間の存在とは、このような人間と世界とのかかわり方のことを言っているのである。 |
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