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自己の客観性というのは、歴史的・地域的な心理ではなくて、それらを無視して超えたところの、絶対的で普遍的な真理を指向している。だからまた、自意識というのが常に問われるのである。自分自身の存在理由、意味といったものが常に自分につきまとい、問い続けられるのである。 人格やプライバシー、人権といった概念がそうである。そして実はそうした概念は、儒教的東アジア世界には無いものなのである。いまもそうである。もちろんそれが善いか悪いかは別の問題なのである。というのは、それは個性とでも言ったもので、私たちは好き嫌いにかかわらず、そこから始めるしかないからである。それが、私たちが生きている現実というものだからである。 しかし、なぜ、東アジアが儒教であり続けたのかというと、東アジアが、土地に縛られた稲作を文明の土台としてきたからであって、何も変わらずに上下の関係を維持し続けることが、この文明の維持と永続の絶対的条件であり続けたからである。 そして、その程度の差は大きいけれども、今日の公務員の世界がこれとよく似てはいないだろうか。上意下達、永久に変わらないし、変わってもならない、という意味でそうなのである。そして、それが常識となっている気質や気性、性格といったものがそうなのである。 |
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