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1、自己認識。


それは、中世の儒教世界がそうなのであって、その延長上に今日のケイレツ?系列?システムがあって、そしてその中の思考と行動の規範が、コネと談合なのである。自分というのが、どこかで限りなく薄められていって、見えなくなっているのである。むしろ、それに気づいてはならないように出来ているのである。

このような世界では、自分というのが自分の中に存在せず、他人との上下の関係の中で自分を見ている。上下の関係の中でしか自分を見つけられずにいる。そうやって、世界の中での自分の立場と拠りどころを確かめているのである。自分の中で自分を問う、といった事がないのである。

自分の中に自分が存在しない以上、そうならざるを得ないのである。従ってまた、自分というのが表面的な体裁と、形式的な外見だけの、中身がカラッポの、いわゆる「なりすまし」の自意識になっている。


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