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3、たましい。


それはいまは無く、失われた、かつてそこに生きていたという営みの、朽ち果てた墓場なのだ。しかしまた、自分にとってみれば、このような自己の死なくして、自己の再生はあり得ないのである。自己の発見ないし復活とは、このような自己の死とその墓場の中からでしか生まれ得ないものだったのである。

そしてこの墓標の、朽ち果てた何かの廃墟といったものは、それへと、すなわち自己の再発見と復活へといざない導いて行くための道しるべだったのである。あるいは、自己を破滅へとおとしいれるマヤカシだったのである。

もしかすると僕は、見てはならないものを見ようとしていたのかも知れない。自分で自分のタマシイをのぞき込もうとしているのである。朽ち果てて、すでに破壊された自分がオバケに呑み込まれようとしている。そうした自分自身のタマシイの世界をを見ているのである。自分のタマシイとは、それ自体がただのオバケなのだ。


戻る。                        続く。

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