――イメージをカタチに(・Image)――
index(索引)<concept(概念)<ルネサンスへ<2011-1018-1 市
目の色や肌の色が違うように、 人それぞれ、感じ方が異なる。 だから、同じものが同じように入ってきても、 その反応の仕方は、 それを受け取る側の都合によって大きく異なる。 文化という、その地上で形成されてきた、 意識の仕組みといったものが、 根本的に異なるからである。 こうしたことは、異民族同士の間だけでなく、 人間同士の個人の間でも起こる。 同じ事を話し、同じようにうなずいていても、 本人が、それをどう感じているかは、 全く別のことなのである。 もしかすると、お互いに反対のことを思いながら、 何か勘違いして、 うなずいているのかも知れないのである。 こうした「違う」という意味で、 これもまた異文化と言えるのかも知れない。 そしてまた、この「違う」ということが、 自分は、「個人」であるという理由ともなっている。 この「違う」ということがなければ、 だれも「個人」であるとは言えないだろう。 この「違う」という自覚が、 社会から自立する個人の、独立宣言である。 しかし、正直なところ、このような自覚は、 今日の日本社会では、非常に危険な思想である。 日本の社会自体が、そのように出来ていないのである。 日本のシステムに抵触する、恐れ多い事態なのである。 それは、日本の秩序や伝統、 常識に対する挑戦とみなされる。 そして、「しつける」とか「常識を教える」といった、 社会的・物理的懲罰の標的(ターゲット)にされる。 現在の日本のシステムは、常に標的を求めている。 それなしには、このシステムは存続し得ないのである。 そして事実、確かにその通りでなのある。 「違う」ということは、 日本の秩序(システム)に対する、挑戦なのである。 続く。 |