――イメージをカタチに(・Image)――
index(索引)<concept(概念)<ルネサンスへ<2013-1006-2
個人の自立と自由、 自己の人格を放棄したとしても、 これが会社組織とか、ムラとか、国家単位になると、 まわりが皆、そうだから気づかない。 戦時中の軍国主義、戦後民主主義にしても、 その本質は同じもので、 ただたんに、みんなで群れて媚びて、 迎合しているだけなのである。 自分自身はどうなのか? というのがない。 「国家のため」というのが、 「会社のため」にというのに変更されただけで、 自分というのがない。自分の考えというのがない。 そもそも自分の考えというのを持つこと自体が、 あやしい人間、空気を読めない不幸な人間なのである。 たしかに、こうした考えは変わっている。 しかし、そうした人間もいるのである。(ボクがそうです。)。 だから、そうした人間から見ると、 自分が他人のように思えて来て、 まわりのすべて、現実の何もかもがボクに対立して、 ひたすら、ボクを強制するだけの他人のように思えくる。 そして自分自身の、口や、鼻や、耳もそうです。 現実との接点が限りなく薄れてゆき、 まるで現実が、誰か他人のように思えるのである。 まるで、社会の中の「異物」ように。 このような「異物」。 生きていること自体が、不思議な存在。 現実にあってはならない存在。 そして、そうした自分自身に対する、 深い、自覚と認識。 こうした自分は、いったい「何」なのか? このような自覚が、自分の潜在意識の中にあって、 暗がりや物陰の中に、 何か得体の知れないものの、輪郭や痕跡として、 精神の反射された映像を見るのである。 ボクを強制し圧迫するものとしての、 何か強烈な意志のようなものを、見てしまうのである。 |