――イメージをカタチに(・Image)――
index(索引)<concept(概念)<ルネサンスへ<2013-1007-3
例えば絵画において、 その筆致や感じ方がそれぞれ異なるのは、 その描き方というのが、 個人の経験と記憶に、多くを依存しているということである。 当然である。瞬間にしか見えない、動くものを、 キャンバスの上に描くとなると、 それの際立った特徴だけを、 強く印象に残った部分だけをとらえて、 その他のほとんどの部分は、画家の経験と勘に頼るしかない。 この勘というのは、画家の蓄積された記憶のことである。 つまり、この記憶が、画家の感じ方であり、描き方なのである。 個性というものなのである。 さらにまた、人間の目の生理的制約がある。 ヒカリの光学的映像が、 そのまま人間の目に映るのではないということである。 人間の目は、生理的・生物学的にできているのである。 それにまた、光学的映像自体が、屈折・回折・偏光等など、 実際の現実をそのまま反映していないのである。 例えば印象派絵画はどうだろう? それは主に、目の中で再生された生理的映像、 残像とか補色(対色)を、特に際立たせたせている。 それは、誰にも見えているのであるが、 必要のないものだから、たいてい気にしないし、 それが見えているとは感じない。 残像とか補色というのは、 本人がそれと意識しないと、実際、見えないのである。 だから、印象派の絵画を初めて見たとき、人々は、 見えないものを、描いていると非難したのである。 だから印象派の絵画は、その情景というのが、 野外の、それも春か初夏の、草花で色が豊富で、風があって、 それが春の陽気と太陽の光で、ひらひらと揺らぎながら、 ざわめき移ろいでいる情景なのである。 そのような情景だからこそ、確かにカゲロウもありうるし、 補色も残像も発生しやすい。 そうして、この情景の中にいる人間の心理状態も、 夢見る感じで、幻の中にいるような、 心地よい気持ちになってくる。 それは、その絵画を見ている者にとっても同じである。 |