ルネサンスへ<2014-1219 感覚のわがまま。 ( 市)
感情と思考が区別されない。 そこまで、届くことがないのである。だから、 自分自身を客観的に見ることができないのである 自己意識というのがきわめて希薄なのである。 そして、実は、こうした自己放棄の状態が、 何らかの快感を与えている。 相手(他人)というのが、そして、 世の中のキズナというのが意識されず、 自分というのが、世界に対して閉じた状態にある。 だから、自分は何をしても許されるし、 なんでもできると思えてくる。責任というのがなくて、 権利義務が自覚されない、孤独で、 内閉的な幸福のきわみにいるのである。 このように、自分というのが、 現実の世界と区別されることのない、直接の関係にあって、 自分というのが見えず、自分と他人、そして自己と現実世界が、 区別されずにいる状態。こうした、自分と外の世界との直接の関係。 いいかえると、自己が自然の中に理没した状態。 そうした世界では自分は意識されず、他者も外的自然も、 自分と対立するものとして、現れてくることはない。 いわば、覚(サ)めることのない、眠ったままの、 夢の世界を生きているのである。 もしも精神が、このような自己というものを、 意識しはじめたら、どうなるのだろう? 仮にそれが意識され、 思考としてとらえられたとしても、 そうだとしても、自分自身は、 それを現実のこととして受け入れることが、 できるのだろうか。 戻る。 続く。 |