(  市)ルネサンスへ<2015-0508 感覚の偽善、



1:印象。

目ではなくて、なにかの記憶でもって、
ものを見ようとしている。だから、よく確かめもせずに、
それとよく似たようなものを、勘違いして見ている。
それとか、たとえば、何かの特徴と結びついた、
印象的な部分だけを見て、それが周りと切り離されて、
ただその印象だけが、大きく拡張されて見えてくる。

そして、たしかにそうだと思えてくる。
実際にあるものよりも大きく拡張されて、
印象深く、あざやかに見ている。そうやって、
たしかにそうだと自分でも納得し信じ込む。

そして同時にまた、その周りのことが見えていないのである。
どうでもよい、必要のないものとして、見ていない。
見えていても見えないし、見たとも思わない。
実際、こうした場合、本人には見えていないのである。
記憶に残らないのである。

人が、なにかを見ていると思うとき、
それは、何かの記憶とか経験と結びついている。
何か意味があるから、それが「もの」として見えてくるのである。
逆にいうと、見えているものは、すべてなんらかの意味を持っている。
問題は、その見えている意味である。正確には、
自分にとっての意味である。自分にとってというのは、つまり、
自分の記憶につながっていて、そしてそれは、
自分の経験につながっている。

 戻る。             続く。


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