( 市)ルネサンスへ<2015-0508 感覚の偽善、
6:相性。
人間は生きている。生きてゆかなければならない。 そのための、社会システムである。であるから、 このシステムにそぐわない人間は、排除しなければならない。 隔離するか、追放するか、破壊しなければならない。 そうやってこそ、システムも、社会も、秩序も維持される。 警察も学校も政府も、そのためのものである。 それが正義であり、正義とは弱者をおとしめることによって、 成り立っている。であるならば、そのシステムに合う者、 合わない人間を、どうやって識別するのだろうか。 ここで、個人的なしぐさや、行動パターン、顔の表情や、 生活スタイルといったものが注目されることになる。 感情や感覚の持ち方自体が、疑惑と詮索の対象となる。 それはただの思い込みに過ぎないのであるが、 そうした偏見が正義となって、感情や感覚そのものが、 疑いの目で見られることになる。そして意識すること、 考えるということ自体が、処刑の対象になる。 文明の様式は、その原理から導きだされる、 それ特有のスタイル、つまり、生活のパターンや、 感情表現の仕方や「しぐさ」、といったものを形成する。 そして、それに合わないものが、「あやしい」とされるのである。 何を考えているのかわからない、わけのわからない、正体不明の、 あやしい人間とみなされるのである。 心情や意思といったものは、表情やしぐさや行為に現れるから、 それを見ると、わかるはずだとされるのである。 そして、それに合わないと怪しい者とされるのである。そうしたことは、 本来、個人のプライバシーに属することのはずなのであるが、 周りのだれもが、プライバシーの概念がないものだから、 プライバシーがわからず、正体不明の人間として、そしてまた、 公共の秩序を乱す、異質の理由を持つ人間と見なされるのである。 みんなとどこか違う人間は、何かウソをついている、 と見なされるのである。そして、実際、たしかにそうなのだ。 こうした人間は、もともとの既存のシステムと相性が悪いのである。 今ある様式の原理が、どこかで切断されてしまうのである。 既存の原理と合わない、それとは異質の原理を、 この人間は求めているのである。だから、たしかに「あやしい」のである。 良いとか悪いとか、正しいとか正しくないとか、 そういう問題ではないのである。別の問題なのである。 要は、もともと「合わない」ということなのである。 あるいは、キリスト教的な自己意識の存在しない社会にあっては、 自己意識そのものが、悪とみなされるのである。 |