( 市)ルネサンスへ<2015-0508 感覚の偽善、
5:感覚だけの記憶。
もしも、そうだとしたら。 たしかに、感情や性格、考え方、 それに自分の生き方といったものは、 なるほど、それで多少は理解できるのである。 しかし、はたしてそれら以前のところにある、 感覚器官自体の感じ方、感受性といったものは、 はたしてどうなのだろう? そうした本来の、自分自身の肉体の中にある、 生理的というか、情緒的というか、感覚的というか、 そうした、心とカラダのリズム、その調和と躍動、 あるいは衝動といったもの。変化しつつも移りながら、 揺れ動く、そうした、心のもち方やあり方といったものは、 いったい、どこから来るのだろうか? それはむしろ、風土や自然とのかかわりの中で、 カラダが、意識されざる感覚の感じ方として、 常態化し、標準化し、最適化されてきた結果のように、 思えてくるのである。 |