( 市)ルネサンスへ<2015-0508 感覚の偽善、
4:必然性。
だから、偶然だけが支配するような、 個人的な気まぐれやわがまま、思いつきといったもの。 さらには感情や衝動といったもの。そうした、初めから最後まで、 偶然によって左右されるような出来事も、 その社会全体からながめて見ると、その社会の、いわば、 越えてはならない枠、境界線が決められていて、 それは、様式化されたシステムとして、 規制され、条件づけられ、方向づけられているのである。 それが、人間にとっての定(サダ)めであり、原理であり、 秩序なのである。オキテとか、ならわしとも言われるのである。 システムの仕組みや、社会のルールやマナーといったものが、 それである。あるいは、個人的なしぐさ(仕草)やクセ、 作法、さらに、感情や性格といったものもそうである。 それらすべてが、その社会特有の、文明の様式によって、 条件づけられ、方向づけられ、そしてまた、 特徴づけられるのである。だからまた、非常にわかりやすいし、 納得もしやすいのである。やはり、なるほどと、うなづけてくるのである。 個人的な気まぐれや偶然に過ぎなかったものが、 文明の様式という原理からすると、それが、 必然の結果として見えてくるのである。 つまり、個人の性格や仕草(しぐさ)、感情や思考いったものは、 その個人が生きている、文明の様式との関係のなかで、 はじめて、なにかの意味をもつのであって、また、それは、 そうした関係性のなかで、形成されてきたものなのである。 そしてまた、個人記憶や経験も、この関係性のなかでのみ、 理解もされ、意味あるものとされるのである。 それは人間が、なにかものを見るとき、 自分の興味のあるものだけが、目の中に入って来て、 そうでないもの、興味のないものは、見えているはずなのに、 ぜんぜん、見ていないのと同じことなのである。 |