( 市)ルネサンスへ<2015-0529b-自己証明、
4:祈り。
見るもの、聞くもの、触れるもの、 そうした自分の外にあるものが、 自分を刺激し、自分のなかでコダマし、 呼応している。同期して、混じり合って、 交流している。 そして、めざめて、生き返り、再生して、 復活してしている。そしてそれは、 自分の中にある、肉体の生理作用であり、 持って生れ出てきた感覚自体の感受性なのである。 自分でも、どうにもならないものなのである。 そうやって、自分で、自分を感じているのである。 そうやって、自分の心臓の音や、呼吸の気配、 息吹きが自分にも感じられるのである。 自分の、カラダの中を駆け巡る血の流れ、 リズムといったものも、はっきりと感じられる。 たしかに、そうなのだ。しかしそれが、まるで、 他人の気配のように思われて来て、 自分のものでないように思えてくるのである。 仕方がないのである。それは、 自分の身に覚えのないことなのだから。なぜ、 そうなるのか、自分でもよくわからないのである。 だから、どうしても違和感と共に、 何か異質なものを感じてしまうのである。 自分自身ではないように思えて来て、まるで、 それが、他人の気配のように感じられのである。 自分以外の、だれか他人が僕にささやきかけ、 息を吹きかけ、カラダに触れてきているように 感じられ、思えてもくるのである。 そうです。それは誤解というものなのです。 それは、自分の中に住む、もう一人の得体の知れない、 自分自身のすがたなのです。自分自身というのが、 見失われている。そしてそれが、めざめて、問いかけて、 ささやいているのである。僕は、いったいだれなのかと。 それは、自己の存在理由を求める祈りであり、 自分自身の確定を求める、問いかけなのである。 今にも消えてしまいそうな、自分自身の証明を 求めているのである。 |