( 市)ルネサンスへ<2015-0619 ホロスコープ(万華鏡)、
7:閉じた世界。
閉じた世界。ここでは何度も破壊が起こるが、 そのたびに、同じ原理の再登場として現れる。 つまり、原理といったものがリセットされ、 初期化されるのである。だから、破壊がおこっても、 本質的な破壊ではなくて、同じことの繰り返し、 以前の原理の再現として現れる。 インドや中国がそれで、ここでは近世に至るまで、 何度も、破壊と創造が繰り返されているが、 本来の意味での創造はなく、 同じ原理の再現として現れている。 それは、いわば、ホロスコープ(万華鏡)の中の、 カガミの中の世界に留まったままなのである。 それは、必然でもあって、カガミそのものを破壊する、 ということがない。それは、人間の暮らしや 社会を成り立たせる根本条件といったものが、 常に、同じものであり続けているからである。 それとは異なる原理に基づく、文明というのが、 成り立ち得ないのである。 ・・・・・・。 そうしたことは、しかし、だれも気づかないし、 知りようがないのである。空間的にも、概念的にも。 自分の「理由」といったものが、そこで、 閉じてしまっているのである。自分が閉じていて、 外の世界が見えないでいる、というのが、 自分でも気づかないし、気づく必要もないし、 気付いてはいけないことなのである。自分で、 自分を意識してはならない世界なのである。 意識するというのは、文明の原理に抵触する ことなのである。 だから、外の世界というのを知りようがないし、 そしてまた、それ以前に、そうした発想そのもの、 そうした意識が生まれる場面、そのものがないのである。 その場面とは、心のよりどころ、その理由、きっかけとか、 衝動といったものである。そうした場所、そのものが、 心の中にないということなのである。 精神の中に、そうした「入れ物」、スペース、 余地といったものが無いのである。 感情を自分の心の中にしまい込むことが 出来ないのである。そして、それを反省したり、 悩んだりすることが無いのである。 だからまた、感情が理性に上昇することもなく、 抽象化もされず、普遍的なものにもなり得ないのである。 ただよって、移ろうだけの情緒として消えて行くのである。 |