(  市)ルネサンスへ<2015-0703-b 何を見ている?



4:アイデンティティー


そしてまた、文明の原理が違うということは、
それが、未知の異界、自分にとっては、
外の世界だということである。そうである限り、
本当の自分は見えてこないだろうということである。

外へ出て、自分とは別の、異質な文明から、
自分を問い直してみる必要があるのである。
そうやって、いままで知ることのなかった、
別の自分というのが見えてくるのである。
自分が生きている文明も、
その原理や必然性もわかってくる。

言いかえると、自己の理由や、アイデンティティーといったものは、
常に変化にさらされ、おびやかされているのであって、それは、
文化として他人から与えられるものではなく、
自分で獲得してゆくしかないのである。

さらにまた、文明というのが、一つではないということは、
唯一絶対の文明の原理などない、ということでもある。
歴史的にも、地域的にもそうである。
それは、それぞれの文明が発生して来た、
風土の必然性、自然条件からも、そうであると言える。
それは、いわば個性なのであって、
一律に比較できないものなのである、
と同時に、やはり、それが指向する方向性においては、
同一の、普遍的なものを目指している、とも思えてくる。

それぞれの民族にとっての原理も、
また、個人にとってのアイデンティティーも、
けっして絶対的なものではなく、
相対的なものでしかないということである。

自分がいま生きている、この文明の原理も、
そして、自分自身の存在といったものも、
常に変化にさらされ、おびやかされ続ける不安定な、
幻のようなものに過ぎず、そうしたなかにあって、
自分が本当に心やすらぐ安住の場所など、
あるはずもなく、もしもそれを求めるとするならば、
はてしのない永遠なものを求めて、
絶えず自己変革を繰り返し続けるしかないのである。

そうした終わりなき無限の自己否定でしかないという、
まことに、苦しく、疲れるだけの人生なのである。
何かを求め努力した結果ではなくて、その過程そのもの、
常に変化し続けるその過程こそが、
自己の存在理由になっている。

つらくて苦しいだけの、そして孤独なだけである。
「自分を意識する」、あるいは、
自分の心の拠り所といったものも、
もともと、そういうことなのかも知れない。

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