( 市)ルネサンスへ<2015-0731-a1、
灰の中。
不死鳥、マキの山、火あぶり、十字架、死と灰の中から。 煙と光と熱の交錯。不規則、偶然、予測不能、 光の回り込み。ゆらぎ、たゆとうカゲロウ。ひらひらと、 なにかが現れては消えて、何かを暗示し、予感させ、 未知の観念の世界へと誘い込む。 現実はここだけではない。 もっとほかの現実があるのかも知れない。 いまここで生きている自分は、他人なのであって、 精神は、自分のタマシイといったものは、 もっと別の世界を生き続けてきたのだ。 それがこの、たゆとうカゲロウの世界である。 精神は、自分の肉体とは別の世界を生きている。 肉体は体裁に過ぎず、どうでもよい仮の姿に過ぎない。 ならば、肉体はどうでもよい「入れもの」なのであって、 精神はこの入れものを出て、あちこちへとさ迷いだして、 結局、肉体は誰でもよく、だれの肉体へも入り込む ことができるのである。 反対に、自己を放棄して、 他人のタマシイの奴隷になることもあり得るし、 自己と他人のタマシイが合体することもあり得る。 つまり、なにが言いたいのかというと、自己と他人の境界、 その区切り線と区別がなくなる、ということである。 自己と他者を区別する、この境界線とは、 それぞれにとっての「人格」を意味している。 それは精神の世界、それぞれにとっての、 観念の世界にしかないものなのである。つまり、 けっして現実には存在しないものなのである。 だから、不死であり、永遠なのである。 個人という現実を超えたところにある、 普遍的で限りない永遠の存在なのである。 |