( 市)ルネサンスへ<2015-0911ーb 早春のまぶしさ。
1、導き。
3月の、早春の世界はまだ肌寒く、カラダは寒さにそなえて身構えている。そんな中で風景のなにもかもが、外へ出ようとしている。いままで固く閉じていたものが、外に向かって開いて出ようとしている。しかしいまだ肌寒く、身構えて警戒しながらも、それでも、様子を見ながら出ようとしている。 いままで殻(カラ)のなかにあって、隠れていた何か得体の知れない、生命力とでもいったもの、存在の源(ミナモト)とでもいったものが、自分の中から外へ向かって満ちてくる。まだ寒く、何かを安心しておこなえる状態ではないのに、カラダはまだ閉じこもっていて、何かを警戒して閉ざしているのに、それを、むりやりこじ開けようとしている。これが、3月の日差しの眩(マブ)しさである。まばゆいといった、春の日のような優しさではない。 いつの間にか知らぬ間に、ほのかに芽生えて来ていて、それが、だれから、どこからというのではなくて、だれもがそうなのであって、気がつくとだれもがそうなのであって、カラの中にあって見えていなかったものが、いつの間にかカタチとなって、現実のすがたになっている。 だれもが、世の中のすべてがそうなのだ。いつの間にか知らぬ間に、現実というのが変わってしまったのだ。これが春の日のおだやかさ、やさしさ、あざやかさというものである。だれもがいつの間にか、気づかないまま変わってしまったのだ。そしてそれは、もはや、戻れないし、戻ることのできない世界なのである。そうした自然に導かれ誘われるままの、意識することもない、とってもここちよい目覚めであり、まばゆさなのである。 |