(  市)ルネサンスへ<2015-1002 見えるもの、



1 観念的現実。


意識の中でイメージされただけのものが、現実にあるものと思えてくる。そして自分を忘れて引き込まれ、吸い込まれてゆく。自分と他人の区別がなくなり、自分が世界の中へ溶け込んでいって一体化する。これは自己放棄であり、ウソとわかっていて信じようとする迷信であり、そしてまた、ウソとわかっている幻覚である。

つまり、意識というのが、現実の中でめざめたまま、夢を見ているのである。自分で自分を否定して、偽りの夢の中の自分を本当の自分のように思い込もうとしている。だから自分と他人の区別がなくなって、自分が現実世界の中で、夢と一体化して同化してしまうのである。

もちろん、これは妄想というもので、いつわりの世界、いつわりの自分というものである。それは、自分がウソであること。自分が自分であって、同時に自分ではないということである。これが迷信とか妄想というものである。しかしまた、これこそが今の自分にとって、何よりも大事で、そしてもっとも必要なことなのである。

現実というのは、そして本当の自分というのは、絶対に見てはならない。自分の心の中をのぞいてはならない。それはヘビに睨まれたカエルが、恐ろしさのあまり、ヘビを睨み返すのと同じで、呑みこまれてしまう。

それは、自分にとってみれば、つらくて苦しいだけの地獄なのである。だから、偽(イツワ)りと空想の中を生き続けなければならないのである。だからまた、いつわりの迷信というのが必要なのであって、それは本当は、偽りとわかっているからこそ、そしてまた、偽りといったものが、だれにもすぐにわかるものだからこそ、信じられ、崇拝されるのである。

真実というのは、ウソ偽(イツワ)りのことなのである。だれもが、そうやって信じるからこそ救われるのである。救いが必要なのである。だから、本当のことは隠し続けなければならない。その目的とするところは、「救い」なのである。自己放棄という無責任を隠して、自分を正当化してくれる「理由」なのである。

 戻る。              続く。

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