( 市)ルネサンスへ<2015-1002 見えるもの、
2 理由。
だから、本当の自分は隠し続けなければならないし、知ってはならないし、見ようとしてもならないのである。だからまた、他人から押しつけられ、そしてそれが、自分の意識の中でイメージされた空想に過ぎないとわかっていて、なおもそれを現実のものとして受け入れるのである。 自分の意識をのぞき見してはならないのである。それは恐ろしいことなのである。だからこそ、そうやって、いつまでたっても自分というのが見えてこないし、見る必要もないし、見なくて済むのである。これが信じるという意味であり、シアワセな生き方なのである。 本当は、それがウソだとわかっているからこそ、安心して信じることが出来るのである。すべては夢とマボロシの世界をさ迷い続けていて、そうやって、いつまでも永遠に本当の自分というものを、見ないでいることが出来るのである。 世界というのが、そうやって、いつわりと偽善で出来ているからこそ、自分で自分に責任を負わなくて済むし、自分のことを、自分で生きてゆかなくて済むのである。自己放棄と無責任のままで、シアワセに生きてゆくことが出来るのである。だからまた、システムにとっては、偽善と迷信は絶対に必要なことなのである。 そうした、迷信で意識されイメージされたものが、現実に目の前にあるものだと思えてくる。しかしそれだけではダメで、思わなければならないし、そうであるはずなのである。そうでなければならないのである。なぜなら、そう思い込むことによってのみ、自分の居場所と理由が与えられるからである。生きて行けるからである。 |