(  市)ルネサンスへ<2015-1016 光の向こう側、



5:記憶のカタチ。


だからもちろん、何かありもしない音や気配にしても、そこから何かを感じるといったことが当然おこって来る。自分の息の呼吸や心臓の音が、何かの音色(ネイロ)として聞こえて来たり、空気に触れる肌の感触が何かに触れたようで、体内の血流が一瞬止まったり、周りの空気や雰囲気に肌の毛が逆立ちして、なにか言いようのない、人の気配をすぐ真近に感じたりするのもそうなのである。

自分の心の中にある何かが、外の現実の世界に対してワケも分からず本能的に反応しているのである。しかし、それはもともと、自分の中に衝動としてあったものなのである。それが何かのキッカケで反応して、自分の中から溢れてきて、外へ出て来てしまっているのである。何か得体の知れないイメージとして、あるいは音色(ネイロ)や気配となって、見えたり聞こえたりしてきているのである。

そうやって、未知で異質なものを自分の中に感じてしまうのである。そしてそれが、いやがうえにも自分を圧倒してくるのである。忘れられていたものが、得体の知れない衝動となって、自分の中でよみがえってくるのである。

そしてもちろん、それが「何か」というのが、自分でもわからないのである。それは、それ以前の、根源的な本能や衝動といったものだからである。だからまた、言い換えると、それは自分が何であるかのすがたカタチを求めているのでる。何らかのカタチを取ることによって始めて、それが「何か」というのが分かってくるからである。自分にとって無視できない「何か」であることが意識されてくるからである。

それは、なにかのカタチにならなければ、過ぎ去ってゆく感情の気まぐれで終わってしまう。イメージや音色、あるいは気配といったものが何らかのカタチとなることによって始めて、それが記憶に残ることが出来るのである。意識もされ、それを知ろうともするし、理解もされてくるのである。

 戻る。             お終い。

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