( 市)ルネサンスへ<2016-0212ーc3-1 感覚の記憶、
3:限界。
感覚の感覚に対する感じ方といったもの。感覚そのもの。 それは「風土」そのものであり、人間が生きている現実そのもの、 人間精神のあり方そのものである。そしてそれが、現実に生きている 人間の姿であり、人間精神の本質、根源といったものではないだ ろうか。意識とは、主観でしかないのである。 意識や思考、あるいは概念や言葉などといったものは、 こうした自然環境を条件として、そこから押し出され、 方向づけられてきた、それ自体、明確な輪郭を持つ、 民族精神の特徴なのである。そしてそれは、その民族の、 精神の領域と境界、そしてその姿かたちを示しているのである。 それは「めざめ」であり、よみがえりであり、なかからにじんできて、 あふれ出たのである。祖先の記憶といったものが、自分自身の 肉体のなかで「めざめ」たのである。自分というのが祖先の記憶の中で 一体化されて、自覚され、そして確められる。感覚のなかで、 自分自身というのが映し出されて、見えてくる。 他人とは違う自分の情緒とか感情、心理的傾向といったもの。 それらが自分でも確かめられ、納得し、そして自覚されてくる。 自分自身の精神の領域と輪郭がわかってくる。そして、 その必然性と限界もそうである。他人と区別されるものとしての 自分が意識される。自己のアイデンティティーが課題として登場し、 そして、それに悩み苦しめられることになる。 戻る。 お終い。 |