(  市)ルネサンスへ<2016-0212ーc3-1 感覚の記憶、



2:理由なし。


だから情緒には理由がない。わけもなく、それがいつ、どこで、
などといったことにも関わらない。そうした現実の場面とは無関係に
情緒はやってくるし、知らぬ間に情緒に包まれている。そしてそれが、
意識されることなく、空気や、雰囲気や、気持ちのあり方として
人々を包んで、支配している。

そしてそれが、ことばのイントネーションや、身ぶり素ぶり、目の動き、
顔の表情などに現れてくる。それが自分にとって、もっとも自然な
心情であり、まわりの者にとっても、そうであるように思えてくる。
そうした心情とは、自分自身というよりも、むしろ、集団にとっての、
みんなにとっての心情とでも、言うべきものなのである。

みんなの中で個人というのが理没していって、自己意識というのが、
みんなという集団の中で、溶けて、消えて、同化している。
(=人格の消失)。個人というのが消えて、自己意識というのが、
集団のなかで一体化している。平均化・均質化している。
これがいわば、日本の信仰であり、自己認識(アイデンティティー)のあり方
なのである。日本語で言うところの、「空気が支配している」とは、
こうした状態を指している。個人が消えて、集団としての雰囲気が
個人を強制してゆくのである。

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